仏教の教えについてご説明します。
仏教の教え
仏教とは?
仏教とは、紀元前624年に北インドに誕生した仏陀(ブッダ・シャカムニ)によって説かれた教えのことをいい、何百年にもわたりその効果が実証されてきた、科学的な教えです。
日本では、聖徳太子の時代、憲法17条に「三宝を深く尊敬し、尊び、礼をつくしなさい(三宝とは、ブッダ、ブッダの教え、僧)と説かれており、日本の文化形成にも大きな影響を与えてきた、日本人にはとても馴染みの深い教えです。
ブッダの教えの要点を簡単に説明すると、以下のようになります。
■わたしたち人間は、サムサラ(コントロールできない輪廻の輪)と呼ばれる、6つの世界(神界、阿修羅界、人間界、動物、餓鬼、地獄)の中で生まれ変わりを繰り返しているということ。
■輪廻の世界の本質は「苦しみ」であるということ。
■輪廻の世界には「カルマ」と呼ばれている因果応報の法則があること。
■輪廻の苦しみから解放される方法があること。
■輪廻の世界の究極の本質は「空」であること。
■人間の誰もが「輪廻」という夢から目覚めて「ブッダ(覚者)」になることができること。
■誰もがブッダとなり、人々を利益することができること。
これらの教えが大きな柱になっています。
なぜ仏教を学ぶのか?
わたしたちは皆、幸せになることを願っていますが、無知によりその本当の方法を理解していません。
私たちは周りの状況を改善すれば本当に幸せになれると信じています。この信念につき動かされて、ほとんどの国が著しい物質的成長を遂げてきました。
しかし見ての通り、私たちはそのことでより幸せになってはおらず、問題を軽減させてもいません。それどころか物質的成長はさらなる問題と苦しみと危険をもたらしています。
環境や水や大気を汚染してきたことで、私たちの体はより不健康になり、様々な病気が世界中に蔓延しています。今、私たちの生活はより複雑になっていて、精神的にも不幸で心配事が増えています。
いまだかつてないほど様々な問題や危険があります。これはただ周りの状況をよくするだけでは私たちが幸せになれないことを示しています。
もちろん私たちは人間ですので、人として生きるための基本的な環境は必要です。しかし、心が平和であってはじめて、周りの状況は私たちを幸せにしてくれます。
仏教を学び、日々の瞑想を通して心のコントロール法を学べば、わたしたちは日常生活のすべての問題を解決することができるようになり、いつでも幸せでいられるようになります。
仏教とは古より伝わる教えですが、どの時代でも普遍的に適用することができる科学的なこころのテクノロジーと言えるでしょう。
3種類の輪廻のいきもの
仏教と言えば、究極の覚りをひらくという、凡人にはかけ離れている、高いレベルを追求する宗教のようなイメージがありますが、どのようなレベルの人にとっても、日常生活ですぐに使える智慧をお伝えしています。
仏教では輪廻の世界の生きものは3つの 種類の存在があると説いており、その3つとは、小士、中士、大士です。
小士は「最初の範囲の人」と呼ばれています。なぜなら、彼らの精神の範囲、また、能力は、発展の最初の段階にあるからです。
仏教の小士の道の段階の教えを学び修練することで、わたしたちは人間としての幸せを享受することができます。
2番目の種類の中士は「中間の範囲の人と」と呼ばれています。なぜなら彼らの精神の範囲は最初の生きものよりは広範囲に及びますが、大士よりは発展していないからです。
中士の道の段階の教えを学び修練を行うことで、わたしたちは輪廻の苦しみから解放され、ニアバーナ(涅槃)と呼ばれている解放を達成することができます。
3番目の種類の大士は「偉大な範囲の人」と呼ばれています。なぜならこの範囲の人は最初の範囲から、中間の範囲を通して進展し、彼らの精神の能力は偉大になっているからです。
大士の道の段階の教えを学び修練することで、わたしたちは「覚り」という究極の幸せを達成し、ブッダになることができます。過去にもたくさんの人がブッダになりました。そして、これからもたくさんの人がブッダになるでしょう。
ブッダになれば自分自身だけでなく、人を覚りに導くことができるように利益することができるようになります。
仏教の修練はこれら3つの種類のすべての生きものの望みを満たしますので、「覚り」という、最も高いレベルを目指す人だけではなく、すべての生き物の必要性と願いを満たすことができるのです。
サムサラ(Samsara:輪廻)とは。
サムサラとは、輪廻の6つの世界の生まれ変わりの苦しみのことをいいます。
サムサラを大きな家のそれぞれの階に例えると、この家には地上3階、地下3階あります。
わたしたちは絶えずこの家の中を上がったり下りたりしています。時に地上に行くこともありますし、時に地下で暮らすこともあります。
地上1階は人間界です。この上の2階は阿修羅界です。阿修羅は人間ではなく、いつも神々と戦争をしています。
阿修羅は力と物質的豊かさにおいて人間より優れていますが、嫉妬と暴力に強く取り憑かれているため、その生き方には精神性を向上させるという点において価値はありません。
最上階には神々が住んでいます。最も低い階層の神々である欲望の世界の神々は安楽と贅沢に満ちた生活を送り、欲望を満たすことに時間を費やします。
欲望の神々の世界はまさにパラダイスであり寿命はとても長いのですが、その寿命は永遠ではなく最終的には下層界にまた生まれ変わります。
欲望の世界の神々の生活は娯楽に満ちているため、ブッダの教えを実践しようとは思いません。
欲望の世界の神々よりも上の階層は、官能的な欲望を超越している神々の世界です。彼らは深い瞑想状態による研ぎ澄まされた至福の中にあり、その体は光でできています。
この世界の神々の心は、サムサラの中では最も純粋で高貴なのですが、彼らもサムサラの根本的な原因である自己への固執の無知を克服してはいません。
ですから、至福を何劫にもわたって経験した後にその生を終え、最終的にサムサラのより低い世界に再び生まれかわります。
地上3階は「幸運な世界」と呼ばれています。なぜなら、そこに住む存在は比較的快適な生活ができるからです。
地下には3つの下層界があります。この3つの世界の中で苦痛が最も少ないのは、地下1階に相当する動物の世界です。
動物界は人間以外の哺乳動物、鳥、魚、昆虫、虫などすべての動物王国が含まれます。動物の心は極端な愚かさを特徴とし、精神的な気づきに欠け、その生は恐怖と残忍さを特徴とします。
その下の階には飢えた霊が住んでいます。ここに生まれかわる主な要因は、貪欲さを動機とした強欲とネガティブな行為です。
これらの行為の結果は、極端な貧しさです。餓鬼は長い期間にわたり、耐え難い飢えや乾きに苦しみます。
最下層は地獄です。地獄に生きる存在は容赦ない苦痛を果てしなく経験します。火の塊の地獄もありますし、氷と暗闇の荒れ果てた場所にある地獄もあります。
地獄に住む者たちの心によって作り出される怪物はひどい拷問を行います。絶え間ない苦しみが永遠のように思われるほど長い間続きますが、彼らを地獄に生まれかわらせたカルマが尽き死んでしまうと、彼らはまたサムサラのどこか別の場所に生まれかわります。
これがサムサラの全体像です。私たちは始まりのない昔からサムサラに捉われ、最上階の天国から奈落の底の地獄へと、何の自由やコントロールも持たずに、意味もなくさまよってきました。
上層階で神々として暮らす時もありますし、人間として1階にいることもありますが、ほとんどの場合は地下に捉われ、ひどい精神的、肉体的苦痛を味わいます。
サムサラは牢獄に似ていますが、1つだけ私たちが逃れることのできるドアがあります。そのドアは現象の究極の本質である「空」です。
わたしたちはブッダの教えを聞きトレーニングを積むことで、この家が私たちの不純な心が生み出している単なる幻であることに気づきます。
カルマ(KARMA)とは?
体の行為、言葉の行為、心の行為のいずれの行為も、これらはサンスクリット語で「カルマ」と呼ばれています。
私たちの体と言葉と心の行為はすべて原因であり、私たちの経験はすべてその結果です。
カルマの法則は、なぜ個々の人に特有の気質があり、それぞれに特有の容貌があり、それぞれに特有の経験をするのかを説明してくれます。これらは、個々の人が過去に行ってきた無数の行為の様々な結果です。
健康を享受する人もいれば、いつも病気の人もいます。とても美しい人もいれば、とても醜い人もいます。幸せな性格でわずかなことに喜びを覚える人もいれば、気難しく何に対してもほとんど喜びを覚えない人もいます。
精神的な教えの意味を容易に理解する人もいますし、その教えを難しく曖昧だと思う人もいます。
私たちがサムサラと呼ばれる世界に生まれ、多くの困難や問題を経験するのは、私たちのカルマのためです。苦しみは自分の行為(カルマ)が作り出します。罰として私たちに苦しみが与えられている訳ではありません。
私たちが苦しむのは、私たちが過去世で殺生、盗み、人をだまし、人の幸せを壊し、間違った見方を保つといった多くの徳のない行為を行ったせいなのです。これらの徳のない行為の源は、怒りや執着や自己への固執などの煩悩です。
私たちが自己への固執と他の妄想を浄化すれば、私たちの行為はすべて自然に純粋になるでしょう。
私たちは、純粋な体を持ち、純粋な楽しみを享受し、純粋な存在に囲まれ、純粋な世界に住まうことができます。これが私たちの心の中に本当の幸せを探す方法です。
「空」とは?
空とは物事の実際の在り方です。物事がどのように現れるかではなく、実際に物事がどのように存在するかということです。
私たちは、テーブル、いす、家といった見えている物が実在すると自然に信じています。その理由は、物事がその現れ方とまったく同じように存在していると信じているからです。
しかし、私たちの感覚に現れる物事は欺瞞的で、実際のあり方と完全に矛盾しています。
このWEBサイト、私たちの体、友人、私たち自身、そして森羅万象は、実際は夢の中で見る物事のように、単なる心の現れに過ぎません。
私たちが象の夢を見ると、象は細部に至るまで鮮明に現れます。私たちは象を見て、聞いて、匂いを嗅ぎ、触れることができますが、夢から目覚める時に、それが単なる心の現れに過ぎなかったことに気がつきます。
象は自分の心の投影に過ぎず、心の外には存在していなかったことは明らかなので「今、あの象はどこにいるのだろう」と思ったりはしません。
象を捉えていた夢の意識が消えた時に、象はどこかに行ったわけではありません。象は単なる心の現れに過ぎず、心の外には存在していなかったため、ただ消えてしまったのです。
ブッダはすべての現象に同じ事が言えると述べています。すべての現象は単なる心の現れに過ぎず、それらを認識する心に完全に依存しています。
私たちが目覚めている時に経験する世界と、夢を見ている時に経験する世界は、どちらも誤った概念から生じる、単なる心の現れに過ぎません。
夢の世界が偽りであるとすると、目覚めている間の世界も偽りであると言わなければなりません。また、目覚めている時の世界が正しいとすると、夢の世界も正しいと言わなければなりません。
そのたった1つの違いとは、夢の世界は「夢を見る微細な心」への現れであるのに対し、目覚めている時の世界は「粗い目覚めた心」への現れだということです。
夢の世界は、その世界が現れる夢の知覚が存在する限り存在し、目覚めている時の世界は、その世界が現れる目覚めた知覚が存在する限り存在します。ブッダは「すべての現象が夢のようであることを知るべきだ」と述べました。