ブッダ(仏陀)とは?
ブッダ(仏陀)とは
一般的に”ブッダ”とは”目覚めた者”のことを意味し、無知の眠りから覚め、物事を実際にあるがままに見ることのできる者を言います。ブッダはすべての欠点と精神の障害から完全に自由です。これまでの過去に、多くの人がブッダになりました。そして、未来においても、多くの人々がブッダになるでしょう。
ブッダ・シャカムニの誕生
仏教の創設者であるブッダは、ブッダ・シャカムニ(仏陀釈迦牟尼)です。「釈迦(シャカ)」とは彼が生まれた王族の名前であり、「牟尼(ムニ)」は”有能な方”という意味です。彼は、現代のネパールの一部、元々は北インドのルンビニと呼ばれる場所にあった王国の王子として、紀元前624年に誕生しました。彼の母親は「マヤデビ王妃」であり、父の名前は「シェッドダナ王」です。
ある夜のできごとでした。マヤデビ王妃は、白い象が天から降りて来て彼女の子宮の中に入る夢をみました。この白い象は、彼女が力強い子供を妊娠したことを暗に示していました。その後、彼女はその子供を産んだのですが、痛みを経験する代わりに、ブラウマとインドラという神々が、彼女の脇から痛みなくその子供を取り上げるという、とても純粋なビジョンを体験しました。
彼が生まれた後、王様がその子供を見た時、まるで彼のすべての願いが叶えられたように感じました。そして、彼は息子を「シッダルタ」と名付けました。王はシッダルタの将来を占うためにブラウミンの預言者を招待します。するとその予言者は彼に「この男の子は全世界の統治者であるチャクラバティンの王になること。そして、完全な覚りを開いたブッダになるでしょう」と告げました。
シャカ族の王子としての生活
シッダルタは若い王子として育っていくのですが、彼は何の教えも必要とせず、すべての伝統的な芸術と科学に熟達していました。彼は64もの違った言語を知っていましたし、数学にも大変優れていました。彼は勉学をする必要はありませんでしたが、父親を喜ばして他者に恩恵をもたらすために勉学をしていました。父親の願いにより、シッダルタは様々な学術を学ぶと共に、武術やアーチェリーなどのスポーツを学ぶ学校にも参加され、これらにも熟達していました。
病人、老人、死骸との出会い
時折、シッダルタ王子は人々がどのように暮らしているのかを見るために、父親の王国の首都へ行きました。これらの訪問の間、彼は老人たち、病気の人たちにあいました。そして、ある時に死骸を見たのです。これらの体験は彼のこころに深い印象を残しました。すべての生きとし生けるものは例外なしに、誕生、病気、老い、死の苦しみを経験しなければならないことを認識します。彼はすでに生まれ変わり(輪廻)の法則を理解していましたので、生きとし生けるものすべてが、これらの苦しみを一つの生まれ変わりだけではなく、将来の生まれ変わりにおいて、終わりなく何度も何度も経験することを認識していました。この苦しみは王子のこころに強い慈悲のこころを生じさせました。そして、生きとし生けるものすべてを苦しみから自由にしたいという願いが生じたのです。
結婚
彼は完全に覚りを開いたブッダのみがすべての生きものを助ける智慧と力を持っていることを認識していたので、覚りを達成するまで、深遠な瞑想をするために宮殿を去ることを決意しました。シッダルタが宮殿を去る決意をしていることをシャカ王国の人々が知り、こころを変えることを願って結婚をするように勧めました。王子は賛成し、ヤソダーラという名前のシャカ族の娘を見つけたのです。しかしながら、シッダルタは「執着の対象は毒のある花のようなものであり、最初は魅力的に見えるけど、最終的には大きな苦しみの原因になる」ことを理解していました。
シッダルタの宮殿を去る決意は変わりませんでしたが、彼は父親の願いを叶えるために、そして、シャカ族の人々に一時的な恩恵をもたらすためにヤソダーラと結婚します。
出家
王子が29歳の時、十方向のすべてのブッダが彼の前に現れてきました。そして声をそろえて「以前にあなたは苦しみのサイクルに囚われた生きとし生けるものすべてを助けるために、征服者ブッダになるという決心をなさいました。今やその決意を成し遂げる時が来たのです。」と言うのを耳にしたのです。
王子はすぐに両親の元へゆき「私は森の静かな場所へ退き、深い瞑想を行い、迅速に覚りを得たいと願っています。私が覚りを得れば、生きとし生けるものすべてのご恩に報いることができ、あなたがたが私に示してくださったご恩に報いることができることでしょう。ですからどうか私が王宮を離れることをお許し下さい。」と告げます。
王子の言葉を耳にした両親は大きな衝撃を受けました。そして、王はこの願いを拒否します。シッダルタは父に「お父様が私に生老病死の苦しみからの永遠の自由を与えてくださるのであれば、私は王宮にとどまります。しかしそれが叶わないのであれば、私は人生を意味あるものとするために王宮を離れなければなりません。」と言いました。王は息子が王宮を離れるのを何としてでも止めようとします。王子が心変わりするように、美しい女性、踊り子、楽団で王子を囲み、昼も夜も彼を歓ばせようと魅惑します。そして、王子の逃亡を防ぐために、王宮の壁という壁に見張りをつけます。
しかしながら王子の決意は揺らぐことはありませんでした。ある夜、王子は神通力を使って見張りと付き人を深い眠りに誘います。そしてその間に信望の厚い護衛の助けを得て王宮から抜け出します。10キロほど行ったところで王子は馬から降りて、護衛に別れを告げます。そして髪の毛を切り、その髪を空高く放り投げます。その髪は三十三天の国の神々の手にわたり、神々は王子にサフロン色の衣を捧げます。王子はこれを受け取り、それと引き換えに王子の衣を神に引き渡します。このようにして王子は僧侶となったのです。
瞑想
シッダルタはインドのブッダガヤに足を運び、瞑想にふさわしい場所を見つけます。そして「ダルマカヤの空間のような集中」という瞑想を中心としてそこにとどまります。その瞑想でシッダルタはあらゆる現象の究極の本質に一心に心を集中させます。この瞑想で6年間修業した後、シッダルタは自分が完全な覚りを得るのに程近いところに到達したことを悟ります。
そこでシッダールタはブッダガヤに向かって歩き、太陰暦の4月の満月の日に菩提樹の下に瞑想の姿勢で座り、完全な覚りを得るまで瞑想から脱しないことを誓います。この決意と共にシッダルタはダルマカヤの空間のような集中に入ります。
マラに打ち勝つ
夕闇が降りてきて、この世のあらゆる悪魔の主、デヴァプートラ・マラが多くの恐ろしい霊を出現させ、シッダルタの集中を邪魔しようとします。あるものは槍を投げ、あるものは矢を放ち、あるものはシッダルタを火で焼き殺そうとします。マラは彼に石や山すら投げようとする数々の恐ろしい悪魔を生じさせました。しかし、シッダルタの集中力によって、武器や岩や山はシッダールタには香り立つ花の雨のように映り、燃え立つ火は虹の光のお供えのようになりました。
シッダールタが恐れをなして瞑想を止めないのを目にして、デヴァプートラ・マラは数知れない美しい女性を出現させて集中力を乱そうとします。しかしながらシッダルタはこれに対してもより集中を深めるという反応を示します。
目覚めたもの、ブッダ
シッダルタはこうして夜明けまで瞑想を続け、ヴァジュラのような集中を得ます。限りある存在の最後の最後の心であるこの集中を以ってシッダルタは、彼の心から無知の最後のヴェールを剥ぎ取り、その次の瞬間に完全に覚りを得たブッダになられます。
ブッダが知らないことは何もありません。彼は無知の眠りから覚め、全ての障害を取り除いたので、過去、現在、未来の全てを直接、そして、同時に知っています。ブッダの慈悲や智慧や力は完全に概念を超えています。ブッダは宇宙のあらゆる現象を手のひらに置かれた宝石のように、くっきりと見ることができます。
ダルマの輪を回す
ダルマとはブッダの教えのことを言い、「保護」を意味します。シッダルタが覚りを得てブッダとなった49日後に、彼はブラウマとインドラの神々から教えを人々に授けるように要請を受けます。この要請を受けて、ブッダは瞑想から起き上がり、第一のダルマの輪を回します。これらの教えは仏教の、特に小乗仏教(ヒナヤナ)の教えの中核となる、スートラの4つの聖なる真理やその他の教えを含みます。後にブッダは完全な智慧のスートラ(般若心経)や志を見定めるスートラを含む第二のダルマの輪を説きます。これらの教えは仏教の優れた乗り物、大乗(マハヤナ)の教えの中核となります。
小乗(ヒナヤナ)の教えでは、いかに自分自身が苦しみから自由になるかを説いていますが、マハヤナの教えでは、いかに私たちが他の人たちのために覚りを達成するかを説いています。
現代の仏教
仏教とはブッダ・シャカムニの教えを基盤としており、小乗、大乗の両方の宗派がまずインドで、そしてチベットを含むその周辺諸国のアジア諸国で栄えました。今や宗派は西洋でも栄えようとしています。仏教を実践することで、私たちは自分たちを苦しみや問題から守ることができます。私たちが日常生活で経験する問題のすべては無知から生じており、ダルマを実践することが無知をなくす方法です。
ダルマの実践は、私たちが人生の質を高めるこの上ない方法です。人生の質は外面的な発展や物質的な進歩にではなく、平和と幸せという内的な発展にかかっています。例えば過去に多くの仏教徒が貧しく発展途上の国々に住んでいましたが、彼らはブッダの教えを実践することにより、純粋で永続する幸せを見出すことができました。
私たちがブッダの教えを日常生活に取り入れると、私たちはあらゆる内面の問題を解決でき、本当に穏やかな心の状態を得ることができるでしょう。内なる平和がなければ、外的な平和はありえません。私たちが精神的な道のトレーニングすることによって、自分たちの心に平和を確立すれば、自然と外的にも平和が訪れることでしょう。しかし、私たちの心に平和がなければ、どれだけ多くの人がキャンペーンをしても、世界平和が訪れることは決してないでしょう。
ブッダは生きとし生きるもの全てに対して差別も偏見もなく偉大な慈悲の心を持っています。ブッダは宇宙全体を通して様々な形で現れ、全ての生きものに祝福を授けることによって、例外なく恩恵をもたらしています。ブッダは生きとし生けるものを助けるのに何が望ましいかを考える必要がありません。ブッダは自然に何の苦もなく最も役に立つことを行います。
太陽が光や熱を発するのに動機を必要とせず、ただ光と熱が太陽の本質であるがために光や熱を発するのと同じように、ブッダも他の人の役に立つために動機を必要としません。他の人に役に立つというのがブッダの本質だからです。
静かな水面に現れる月の投影のように、ブッダの化身は生きとし生けるものが認識できる場所すべてに現れます。ブッダは生きとし生けるものを助けるために、あらゆる形をとって現れることができます。
ブッダは仏教徒として現れることもありますし、仏教徒ではない人として現れることもあります。女性として現れることもありますし、男性として現れることもあります。ブッダは君主、娼婦、善良な市民、犯罪者として現れることもありますし、動物や風、雨、山や島として現れることすらあります。私たち自身がブッダでない限り、誰や何がブッダの化身であるかを知ることは出来ません。
ブッダが生きとし生けるものを助ける方法の中で最も優れた方法は、スピリチュアル・ガイドとして現れるというものです。その教えを通して、資質のあるスピリチュアル・ガイドは、弟子たちを自由と覚りの道へと導きます。私たちが資格ある大乗仏教(マハヤナ)のスピリチュアル・ガイドに出会い、スピリチュアル・ガイドの教えすべてを実行すれば、私たちは自分自身を苦しみから解放し、また、自分だけでなく、生きとし生けるものすべてを輪廻の苦しみから解放し、この上ない至福な状態に到達することができるでしょう。そして、全ての生きものの恩恵に報いることができるのです。